タイトルは、「新型コロナの影響によってテレワークが100歩進んだと言われて久しいが、全く進まなかった公立学校におけるオンライン授業が、オミクロン株の流行による学級閉鎖やコロナ不安による欠席者の爆発的増加によって、旧来の学校の在り方そのものの根底を揺るがしかねない状態に片足を踏み込んでいる件について」だったのですが、長すぎたので短くしました。
最近、オミクロン株の流行によって、学級閉鎖、学校閉鎖が急激に増えているというニュースを見ます。また、それに伴って、「コロナ不安」(学校に登校することによってコロナに感染してしまうことが不安であるということ)を理由にした欠席者も確実に増加しているらしいです。
さて、このような状況下において、学校の授業をオンラインで配信するという動きがあります。公立の小中学校においては、徐々にGIGAスクール構想によってタブレット端末等が生徒1人1台配布されている学校が増えているようで、オンライン授業が可能になっています。
大学では、MOOC(Massive Open Online Courses)に代表されるように、かなり前からオンライン講座が発展していました。私がMOOCについて調べて、実際にedXやcourseraに登録して利用してみたのは、今から8年も前のことになります。ようやく、日本の学校も(新型コロナという強力な後押しがあったこともあり)時代の流れに追いついてきたなぁという感じです。
学校における学びを考える上で、「オンライン」が一般に普及したことの効果は、今はまだあまり意識されてはいないですが、今後、破壊的な影響を与えるのではないかと私は思います。特に、中学校や高等学校における教育に関しては、既存の教育枠組みの根本を揺るがす変化が起きるはずです。なおかつ、ものすごい速度でそれが進んでいきます。何が変化するのか、いくつかポイントに分けて考えてみたいと思います。
①学校に行くことの意味について
②出欠判断の曖昧さについて
③評価と評定のあり方について
④技術の加速度的進歩について
⑤反転授業について
こんな感じでしょうか。1つ1つ何かしら書こうと思っていたのですが、面倒になってしまったので、また次の機会にしたいと思います。とりあえず、考えておかないといけないのは、「完璧なオンライン授業(あらゆる課題が解決されたオンラインでの授業)が完成してしまった場合における学校の存在意義」だと思います。特に、中学校と高等学校においてそれがなし得てしまった場合、どれだけの生徒が学校に登校するでしょう。「登校」という概念が、そもそも変わってしまうかもしれません。
日本の先生方はとても真面目です。オンライン授業も適当にやるのではなく、残業に残業を重ね、「良い授業を生徒のためにやってあげたい」気持ち一心で準備する方々がたくさんいることでしょう。その結果、学校に来て勉強している生徒たちが、家でオンライン授業を受けている生徒がなんの問題もなく授業を理解し、成績も自分達と変わらない様子を目の当たりにした時に、何を考えるでしょうか。そうなった時に、初めて「学校に来ることの意味」が本当に問われるはずです。「友人」「給食」「部活」「先生」「行事」、、、実は、学校でできることの多くは、学校ではなくてもできることです。唯一の強制力ある強力な縛りが、「成績」と「出席日数」なのです。この2つの縛りがオンライン授業で達成できるのであれば、相当数がオンライン授業を選択するのではないかと思います。
オンライン授業が発展し、課題が解決していけばいくほど、学校そのものの存在意義が変容していくのだろうと思います。すでに、令和元年度における通信制高等学校の進学者数は全体の5.9%を占めています。これは、定時制高等学校に進学する生徒の倍以上の数です。また、通信制高等学校の進学者数は、昭和55年から右肩上がりで増えています。
また、授業のあり方自体も変わっていくでしょう。「学校に来るからこそできる学び」を提供できるかどうかがポイントになります。今までも散々、そのようなことは言われていましたが、今後は、そのような学びが提供されていない教育現場は批判にさらされるようになるでしょう。なぜなら、家庭に授業が配信されているからです。学校教育の透明性がいきなりオープンになるのです。教室でどのような授業がなされているのかを保護者は見ることができませんでした。しかし、今後はそれができるようになります。大変な時代になってしまったものです。